★信州くだものニュース掲載原稿
★海外「ふじ」物語〜その1

信州くだものニュース平成16年6月15日発行

皆さんご存知の「ふじ」は国光×デリシャスの実生から育成され、1958年に東北7号として発表された。そして、後に「ふじ」と命名され、文字通り日本を代表する大品種となった。「ふじ」の歴史は栽培者なら誰でも知っていることだし、多くの皆さんがリアルタイムで経験されているものと思う。実は1958年といえば私の生まれた年である。私ももう45歳になってしまった。

もの心ついた頃すでに我が家では「ふじ」は主要品種になりつつあり、国光を食べた記憶は私にはない。スターキングとゴールデンはまだ残っていた。確か小学校の3年生の頃、着色系の「ふじ」たぶん「長ふ一1」だと思うがそれが成って、珍しいといって当時の担任の先生の所に持っていった記憶がある。まだ一生懸命袋かけをしていた頃で、青森県からおばさん達が何人も泊りがけで働きにきてくれていた記憶がかすかに残っている。それから「ふじ」は長い間、日本のりんごのトップを走り続け、今にいたっている。そして、「ふじ」は日本以外の海外の国々でもすばらしい活躍をしてきた。

私は今から20数年前アメリカのオレゴン州のりんご農家で研修をしていた。1980年3月から翌年4月までの一年間、いろいろ経験し感じることがたくさんあった。農業を志したのもこの頃だったし、また海外への思いがいっそう強まったのもアメリカでの経験からだった。世界にはたくさんのりんご生産国があってたくさんの人たちがりんごを作っている。帰国後もそう思うとムショウに行ってみたくなった。あれから20数年毎年のように海外のりんご生産国を歩いた。そして、その旅はまさしく「ふじ」の海外での20年の成長の歩みと同時期の旅だった。

「ふじ」は多くの国々で1960年代にすでに導入されている。中国や韓国は導入は早かったが、日本人あるいは日系人が導入した国も多い。その中で草分け的存在が後沢憲志先生(元長野県果樹試験場場長)がブラジルで広めた「ふじ」栽培であり、アメリカ、ワシントン州のラルフ中田さんであったと思う。 どちらも1970年代はじめから中ごろの話である。そして、その後80年代中ごろからすさまじい勢いで海外での「ふじ」ブームが起こりはじめた。あれか20年「ふじ」栽培に見切りをつけた国もあれば、まだまだ新稙を続けている国もある。そんな、海外での「ふじ」の話を私の体験を通して、これから数回に分けて書いていきたい。

          果樹研究会中信副支部長

                  中村隆宣