★信州くだものニュース掲載原稿
★海外「ふじ」物語〜その5

平成16年10月5日号掲載

ブラジルの「ふじ」

ブラジルで日系人がふじを栽培してすごく儲かっているという話を聞いた。どんな状況か聞きたいと思っていたところ、たまたま須坂でブラジルから戻っていた後沢憲志先生にお会いし、話を聞く機会に恵まれた。今から思えばあれは果樹研究会の設立に関する会合であったと思う。私はただブラジルの話が聞きたくて父についていったのだった。今から20年以上も前の話になる。その後、後沢先生に紹介していただき2ヶ月間ブラジルで研修をしたり南米を旅行することができた。1983年のことである。アメリカでふじの評価があまり良くなかったことが気になっていた私にとってこの旅行はふじの優良性を確認するうれしい旅となった。当時日系人の人たちはふじを主力品種におき他にガラ、スタークリムソン、陸奥、ゴールデンデリシャスを栽培していた。主要産地のひとつであるサンタカタリーナ州サンジョアキンは標高が1,400m、年平均気温が13,9℃、年間降水量約1,600o、冬季には雪も降るという高原地帯であった。一方ヨーロッパからの移民の人たちはゴールデンデリシャスを中心に栽培を行っていた。りんごの価格はどの品種よりもふじが高く、当時ヨーロッパ系の人たちもふじの栽培を始めた頃だった。人種のるつぼという言葉の通り、様々な人種の集まったブラジルで、数多くのりんご品種の中から、ふじが一番美味しいといわれ、価格も一番高価に取引されていた。あの時のブラジルの状況は今のようにふじが世界的品種になるであろうことを容易に予想ができるものであった。

私がブラジルに行った1983年のブラジルのりんご生産量は約15万トンであったが、その10年前のりんごの生産量はわずか約1,500トンであった。ほとんどのりんごはアルゼンチンから輸入されていた。それが今や80万トンに迫る生産量になって、輸出も始まっている。これほど劇的にりんご産業が成長した国は例がない。それはまさしく、後沢先生をはじめとする日本からの技術援助と日系人の方々の努力のたまものであったと思う。しかし、もしふじという品種がなかったなら、今のブラジルのりんご産業はここまで発展しなかったと思う。ヨーロッパ系の人たちが今でもヨーロッパの品種よりふじの栽培に力を注いでいることが、とても愉快で面白い。その後、久しぶりに2,000年にブラジルを訪れたが、ふじの評価は高いままだった。ただ、生産量が国内消費量を上回り、価格は低下し、たいへんな時代になっていた。まだ生産量は増え続けている。

 

 果樹研究会中信副支部長

    中村隆宣